チェンマイよりみちの記録

タイ・チェンマイに寄り道する人生を選択した個人の記録です。私、ヨリミチ(仮名)が日本やタイからお届けします。

ヨリミチの主張 - 一家に主婦は2人いらない

私は自分のことを主婦だとは思っていないのだけど、年齢や婚姻状況や普段の生活パターンを考えれば対外的には『主婦』と言っておくのが無難な感じ。
そもそも今の時代、主婦の定義が昔とは違ってきていると思うのだけど、同じような生活パターンの友人と会うときは『私たち、世間の目からは主婦Aと主婦Bだよね』などと言っている。(今はコロナ禍で会っていないが)

彼女の場合は実家暮らしだけれど、お母さまは若くして他界しているので家の中でも彼女が『主婦』な感じ。
しかし私は実家で生活しているものの母は健在で主婦業といわれるものはまだ何でもできるし、下手に私が手を出してお互いの意見がぶつかるようなことをしたくないので、私は自分の身の回りのことをするくらい。なので一家の家事を一手に引き受けるのが主婦なのだとすれば、私は『主婦』にもなれていない。

母と娘の同居なら『一緒に食事の支度をするんでしょ』とか『お料理を教われていいわね』と言われることもあるのだけど、全然そんなことはない。実家の台所は大人が2人で作業するにはスペースが細長くてすれ違うのが大変だし(細~い人が2人なら問題ないかもしれないが)、私と母だと味の好みが違う(と私が思っている)ので、どうも私が一緒に台所に立とうという気になれない。(母もそう思っているかもしれない。)

幼少の頃、母方の祖母が『おまえのお母さんは料理が上手でね、云々~』と昔話をしてくれたので、私は母のことを料理上手だと思っていた。
たしかに、母が実家(祖母のもと)にいたときは大家族だったので、大皿料理は今でもそこそこ上手いと思う。煮物とか、魚の煮付けとか。
だけど今は大人の3人暮らし。母は何十年前に身に付けた料理スキルで今でも過ごしているので1品の量が多い。いや、もしかしたら母はそれでも減らしているつもりなのかもしれないが、父・母・ヨリミチの3人分の胃袋に対して過剰な量であることには違いない。
母には母の考え方があって、『食事の量が足りなかったら申し訳ない』と思っているのかもしれない。世代的にそういう時代に育ったから。
だけど今は環境のことを考えても、母が育ってきた時代とは気温が違うので残った料理は腐敗が心配。でも母は寒冷地で育ったのでそのときは大量に作った食べ物が腐敗するということはなかったのかもしれない。そもそも大家族だったので『おかずが残る』ということもあまりなかったのだろう。
その感覚で今でも調理をするので、場合によっては食卓にあがったおかずの皿が冷蔵庫と食卓を何往復かすることになる。するとダメになるものも出てきて最終的には棄てることに。

それこそ食材、ガス代、電子レンジを使って温めていれば電気代も無駄にしていることになって私はもったいないと思うのだけど、どうも母と私には温度差がある。

たとえば、こんなふうに半端な野菜が出てしまったら

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母は『材料が残るのがもったいないから全部使っちゃう』タイプ。
私は『これがあれば明日の1品の足しになる』と思うタイプ。
こんな2人なので一緒に台所に立つのはお互いにストレスになるのは当然。
親子ではあるけれど、触らぬ神に祟りなし。

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