チェンマイよりみちの記録

タイ・チェンマイに寄り道する人生を選択した個人の記録です。私、ヨリミチ(仮名)が日本やタイからお届けします。

清々しいことば

日曜日の朝はTBS系列のサンデーモーニングを見ることが長年の習慣になっている。
大沢親分張本勲さんのスポーツコーナーは楽しかったし、時事コーナーだと女性コメンテーターの述べる意見も興味深く、そこに座られている女性の後ろには何十人、何百人という人々の声があるのだろうなと思うと考えさせられることが多かった。

今日の番組エンディングでキャスターの橋谷能理子さんの降板が発表され、ご本人の挨拶もあった。
そこで司会の関口さんが『今日で橋谷さんが降板となります』と言ったところで思ったのは、『降板』という言葉は関口さんの言葉なのか台本の文字がそうなっていたのか、どっちなんだろうということ。
しかし橋谷さんが『本日をもって降板いたします』という挨拶をされたので、その『降板』という言葉は橋谷さん自身が選んで打ち合わせでそれで統一しましょう、となったのだろうな、と思った。

降板することについて、今は『卒業』という言葉がよく使われている印象があるのだけど、それって良い意味の場合でも悪い意味の場合でも妙に軽いというか、特にトラブルが原因での降板の場合は何かを隠蔽して出演者を降板させて、それを『卒業』という言葉で片付けてしまう事なかれ主義の表れのように思えて個人的には気持ち悪かった。

ヨリミチが覚えている出来事では、AKB48だったかモーニング娘。だったか何かのアイドルグループからメンバーが脱退するときに『卒業』という言葉を使ったところが今の卒業ブームの始まりだと思う。そういうアイドルグループからの脱退なら年齢的にも学生の部活の引退のような感じなので『卒業』という言葉を使っても違和感はない(当時はむしろ新鮮に感じた)し、『卒業後にはばたいてね!』というような、応援したい気持ちになる。
しかしいい歳をした大人が降板のことを『卒業』なんていう言い方をするとだいたいの場合イタく聞こえるのだ。

その点、今日の橋谷さんは『降板』という言葉を使っておられて、その響きがとても清々しく聞こえた。キャスターという仕事に誇りを持っているように感じたし、流行りに流されない強さを感じた。

降板というと何かマイナスのイメージがあるというか、その言葉を発する側も受け取る側も『降ろされた』という感情を抱くケースがあるかもしれず、それを避けるために卒業という言葉を使うのかもしれないが、例えば番組や試合などの状況をガラッと変えるためだとか、いち社会人として仕事の区切りを付けるという意味ならば、卒業などという生ぬるい感覚の言葉を使うよりは降板という言葉を使ってくれたほうが潔さを感じるし、個人的にはその言葉はプラスでもマイナスでもなく、状況の変わり目として事実を受け止めるだけのこと。


言葉って年月や時代とともに変わっていくものだというのは理解しているけれど、変化イコール進化ではないよなぁ、と思う。

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