チェンマイよりみちの記録

タイ・チェンマイに寄り道する人生を選択した個人の記録です。私、ヨリミチ(仮名)が日本やタイからお届けします。

染まるというよりは、寄るのかな

20代のときに働いていた会社は海外の会社ともつながりがある業種だったので、世界のいろいろなところから出張や転勤扱いで日本人が来ることがあった。
そういう人たちは現地の言葉もよくできる人がほとんどで、それはそれで凄いことだと尊敬していたけれど、なんとなく日本語が不自然になっているような気がしていた。
私はその人たちの過去を知っているわけではないので、彼らが海外に出て行く前にどういう日本語を喋っていたのかはわからないが、咄嗟のときには日本語が出てきにくいことがあるし、日本人どうしの会話でも、なんとなく発音や言い回しが特徴をもつようになっているように感じていた。
それを感じるたびに、この人は洋モノかぶれをしているのか、現地での生活に染まってしまったのか、もったいないしちょっと淋しいなぁ、と思っていた。

元々は日本で生まれ育って、きちんとした日本語を使っていたはずなのに、海外の生活が長くなると日本語能力が錆びてきちゃうのか、それとも海外の生活に染まりたくて自分の意志で日本語を棄ててしまうのか・・・。


そして私自身がまさかの国際結婚をして、自分のすぐそばに外国語がある暮らしになった。しかも英語ではなくてタイ語

すると・・・

オットと話すときの私の日本語が、タイ語寄りになってきている・・・!

私自身はオットと話すときに正しい日本語を使わなくてはならないと一応は意識しているのだけど、オットや他の日本語のできるタイ人と接していると、タイ人の日本語発音時のクセとか言い方がなんとなく掴めてきて、タイ人にはこう言ったほうが伝わりやすいのかな、と思ったりしてだんだんと自分の日本語がそちらに傾いているのを感じている。

だけど日本人と話すときにはそのような変化は生じない。ということは、まだ軽症か?!


それでなんとなくわかったのは、若かりしときに『あの人は外国生活に染まってしまって』とか『日本人であることを棄ててしまったのかしら』と思ったのは誤解や偏見だったのだろうということ。
彼らは染まってしまったのではなくて、自分が生活の基盤としている場所の人々と理解を深めようとした結果、半分は意識的に、半分は無意識のうちに変化した、というほうが合っているのかもしれないと思うようになった。

でもそれは自分の日本語に『あれ?』と思った人(= 私)が自分を許すために考えた言い訳かもしれないけど・・・。
当分答えは出そうにない。

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