チェンマイよりみちの記録

タイ・チェンマイに寄り道する人生を選択した個人の記録です。私、ヨリミチ(仮名)が日本やタイからお届けします。

だいすき、と言わされていないか

日本では卒業、卒園のシーズン。
人によっては子供のお弁当作りからも卒業となる。
それでよくできた中高生などは『お母さん、毎日おいしいお弁当(たまに例外も有り)を作ってくれてありがとう』などというメッセージを残したかもしれない。
私はというと、高校生のときは自分でお弁当を作ることもあったので、『母の出番はここまで』という区切りもなかったし、どういうふうな最後だったのかも覚えていない。

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今、私は自室にいるときはほぼラジオをつけているのだけど、最近のリスナー投稿はやはり卒園・卒業の内容が多い。そして『幼稚園から帰ってきた息子から「いつもおいしいおべんとうをありがとう。ママだいすき」というお手紙をもらって号泣』のようなものもあった。

それはそれで嘘ではないだろうけど、果たしてそれは幼稚園児が自発的に書く文面だろうか。
9割5分は先生のテンプレートを写しただけ、残りの5分は自分の気持ち、くらいなものなのでは?
それに『だいすき』って何?と思ってしまう。

私がこの『だいすき』を疑問に思ったのは今から10年ほど前。当時幼稚園児だった姪が、母(姪から見ると祖母)に幼稚園で書いたおてがみを持ってきて、そのおてがみは小さな画用紙に絵を描いて、ちょっとした(いつもありがとう、のような)コメントを書き、『おばあちゃん、だいすき』と書いてあるもの。
それをもらった母は喜んで、『大事なもの入れ』にしまってときどき眺めていたけれど、それを見ている私は母が喜ぶ姿は純粋に良いと思ったけれど、私にはあの姪が『だいすき』という言葉を他人に贈るキャラクターだとは思えなかった。

これは、幼稚園の先生が全園児に書かせたな・・・。


その昔の日本ではお辞儀で済んでいたものが握手になり、握手をしていたものがハグになったように、日本人の振る舞いが変化している。
私は握手でさえちょっと・・・と思うことがある人間なので、日本人どうしでハグというのは内心では受け入れられない場面もある。
それと『だいすき』がどう繋がるのかというと、この文末の『だいすき』は、英文の手紙の最後に書いたりする『LOVE, 』というものではなかろうか、と思ったのだ。
お辞儀がハグになったように、10月の終わりがハロウィーンになってしまったように、手紙の最後には『LOVE, 』と書く。但し、幼稚園児なので『だいすき』。

この不自然でしかない『だいすき』というのは、書かせることが目的になっているように感じられてならない。幼稚園の教員が『うちの園では子供たちの情操教育をきちんとやっていますよ』とアピールする手段として。


私自身が幼稚園児のときに母に対して『だいすき』と思っていたかどうかといえば、『だい』は付かない程度に『すき』ぐらいな感じだったと思うし、それは今でも同じような感じ。
今だって、家庭の事情などで、お弁当を持たせてくれる人のことを『だいすき』と思えない園児はいるかもしれない。それなのに先生から『だいすき、と書きなさい』と言われてしまったら、その園児はとても苦痛に感じるだろうし、将来的には国語が嫌いだとかお弁当が嫌いだとかいうことになるかもしれない。

お弁当を作ってくれることへの感謝は『感謝』であって、作ってくれる人のことを好きかどうかということとは別問題。
お弁当の最終日には『ありがとう』だけでいいじゃないかと思ってしまう。

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