チェンマイよりみちの記録

タイ・チェンマイに寄り道する人生を選択した個人の記録です。私、ヨリミチ(仮名)が日本やタイからお届けします。

言葉になりません

今日の投稿のタイトルはサッカーワールドカップのスペイン戦を終えたときの吉田麻也選手の言葉。
ヨリミチはこの言葉に感動した。

『言葉にならない』という感情を想像して感動したというのではなく、『なりません』という言葉遣いにその人の精神を感じた気がしたのだ。

多分吉田選手くらいの年代の人はそれを『言葉にならないです』と言う人もそれなりの割合でいると思うし、今ではその言い方が普通になりつつあると思う。
ヨリミチとしては『〇〇ない + です』というのは『〇〇ません』が崩れた形というか、稚拙な言い方のように聞こえてしまって、大人がそんな言葉を使うのはいろいろな意味で将来が心配になってしまうのだ。

例えば『今日は学校に行かない』というのを教科書とか国語の授業では『今日は学校に行きません』と教えると思うのだけど、そう習ったはずなのになぜか中学、高校、大学と成長していく過程で『丁寧な言葉遣いを求められる場では取り敢えず「です」を付ければいいや』のようになってしまうのか、一定数の人は『今日は学校に行かないです』と言うようになってしまう。
それは学校に行くとか行かないとかの話に限ったことではなくて、買わないです、見えないです、食べないです、やらないです、などなど、案外至るところに溢れていて、気にし始めると止まらなくなるのは・・・ヨリミチだけなのだろうか。
なんだかこれってせっかく得た知識が頭に残っていないというか、残念な結果だなぁ、と思ってしまう。

小さなこどもや外国人が『駅に行かないです』と言うことはあるかもしれない。でもそれは彼らが持っている知識をフル活用した結果の言葉だと思うので指摘しようとは思わない。
就学前でも日常的に絵本を読んでいるこどもは『今日は買い物に行きません』とか『ごはんを食べません』と自然に言えてしまうのだろうけど、大人が『行かないです』とか『食べないです』なんて言っているのを聞いたら本当にがっかり。
こうなってしまうと、『言葉というのは変わっていくもの』と理解するよりは単なる退化とか怠惰のように感じてしまうのだ。

そんなときに『言葉がありません』とさらりと言ってくれた吉田選手はとても格好良く見えた。

ところで、その日本がスペインに勝ったことはタイでもニュースになっているようで、オットはこんな画像を送ってきた。

球は生きてますっ!!

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