チェンマイよりみちの記録

タイ・チェンマイに寄り道する人生を選択した個人の記録です。私、ヨリミチ(仮名)が日本やタイからお届けします。

ヨガ教室に行かなくなった理由

ヨガやピラティスというものにはかなり前から興味を持っていて、機会があれば体験してみたいと思っていた。
10年くらい前の話になるのだけど、たまたま目にした住んでいる地域の情報紙に『ヨガ・ピラティス』のようなものを発見した。行政も多少絡んでいるせいか料金が安く、いろいろなスポーツ教室が3ヵ月ごとに開講されていることがわかった。
私はちょうど自宅で仕事をするようになった頃で時間的に自由がきいたので、1年くらいかけていくつかのクラスを体験して自分なりに吟味してみた。

私としてはそこそこ筋肉を使う運動をしたかったのでピラティスを受講したこともあったのだけど、望んでいる内容ではなかったことと、その先生は『人に教える』ことではなくて『先生と呼ばれる』ことが目的のような印象を受けたので、疑問を感じて受講は継続しなかった。

ヨガも曜日や時間を変えて何人かの先生に習ってみたが、なぜかヨガのクラスは応募者が多くて、希望のコースを受講できない(応募者多数の場合は抽選となる)こともあった。

そしてその状況を知ったひとりの先生が、個人的にレンタルスペースを借りて別の曜日で教室を開催することになり、たまたま場所も自宅からアクセスしやすいところだったので、早速そちらに乗り換えた。
なぜその先生のクラスを継続することにしたのかというと、先生の声が良かったから。大きな会場でもマイクを使わず、そして先生も無理をしている感じもないのにとてもよく通る声で、その声を聞いているだけでこちらの元気が出てくるような。まさに自然体の声で指示を出してくれ、レッスンを受ける身としても心地よかった。

しかし、というのか何と言うのか、ある程度人数が限られ、付き合いが長くなってくると少々プライベートな話が出てきたり、それはそれで構わないのだけど、先生ご自身の結婚や出産、育児に関連する愚痴的なモノも私たちに向かって(最近○○みたいなことがあったんですけど、皆さんどう思いますか?のような感じで)発せられたり、お身内への不満のようなものもポロポロ出てきたり、心を開くという歩み寄りができてきたと言えば聞こえは良いかもしれないけど、私には『先生・生徒』という立場でする話ではないな、と思えてしまい・・・。
私が参加していたクラスは比較的年齢層が高く、先生の親世代の人が多かったので、そういう人から意見を聞きたかったのかもしれないけれど、その世代の人たちは概ね保守的で、先生という立場の人に意見をするということなどほとんどない。だけど先生はそれをあまり理解されていないようで、なんとなーく誰かが何かを言うまで愚痴っぽいトークが続くことが多かった。

そういえば先生、若い頃に何か考えすぎてしまうところがあって、それが原因で身体を壊してしまったと言っていた。ざっくり言うと、マイナス思考が行き過ぎて、それで負のスパイラルに陥ってしまったとのこと。そこで身体と心を休めているときに出会ったのがヨガで、ご自分はヨガに救われた、と言っていた。
たしかにヨガは精神を安定させることを目指してトレーニングする、のようなことを聞きかじったこともあるし、呼吸だの瞑想だの、そういうもので精神状態が変化する人もいるだろう。まさに先生はそういうヨガに助けられて復活し、ついにはヨガ講師になってしまったのだけど。
だけど逆に言うと、先生の精神の根本的なところにはマイナス思考から始まる思考のようなものがあるということで、そういうものは一個人の個性のようなものなので、無意識のうちに出てくることもあるのだろう。
私にはそういう『先生がヨガに出会う前のいわゆるマイナスのパワー』のようなものが小出しにではあるけれど徐々にこちら(生徒)側にオープンになってきているのを感じて、私はお金を払ってヨガを習いに行っているのになんだか割に合わないというか、せっかくヨガを習いに行っているのに悶々として帰途につくというのが本末転倒のような気がして、他にも理由はあるけれど、ある時を最後に行くのをやめてしまった。

先生だって人間だから、悩みや迷いのひとつやふたつはあるはず。だけどそれのせいでたとえ数分でもレッスンが中断するのは愉快ではないし、身体も心も健やかになるはずのヨガで悶々とするのは、それはヨガではないかもしれないな、と思ったりして。

チェンマイにもヨガ教室は結構あるし、去年の暮れあたりに家の近くに教室もオープンした。
どうせタイ語はたいしてわからないし、仮に先生が愚痴話を始めたとしても理解できないから私のストレスにはならない(はず)。
今度チェンマイに行ったらその教室がまだあるか見に行ってみようかな。
ヨガ自体は好きだし。

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