チェンマイよりみちの記録

タイ・チェンマイに寄り道する人生を選択した個人の記録です。私、ヨリミチ(仮名)が日本やタイからお届けします。

この日だけが大事というわけではないけど

小さい頃、自分の親も含めた昔の人はみんなきょうだいが多いものだと思っていた。
私の母は5人きょうだい。
だけど父は2人きょうだい。
どうして父のきょうだいは少ないんだろう、と思っていたのだけど、あるとき気がついた。
父方の祖父は父が2歳のときに戦死しているので、きょうだいが増えなかった。ただそれだけの簡単な理由。

祖母が再婚していれば話は違ったのだろうけど、環境的に再婚という道をを選びづらかったのか、自分の意思で再婚をしなかったのかはわからないが、祖母は戦争未亡人として人生を全うした。

祖父が亡くなったのは1945年の6月で、場所もだいたいわかっている。が、戦況が戦況だったので遺骨は回収されず、戦友だったかたがその年の暮れに祖母の家に訪ねてきてそのときの様子を伝えてくれ、『骨を持ってこられなかったのでこれを』と言って祖父の靴下を渡してくれた。なので祖父のお墓にはお骨ではなくて靴下が入っている。


何年か前にオットと私はタイの北西部の街メーホンソンを旅行した。このときは私に戦死した祖父がいることは話していなかったが、メーホンソンの隣街クンユアムには戦没者慰霊碑と泰日友好記念館があることをオットは知っていて、私が日本人だからということでそこに連れて行ってくれた。

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クンユアムに行くことは私が日本を発つ前に決まっていたので、そういうことならと私は日本でペットボトルの水を用意してタイに向かった。

この場所に祖父が眠っているわけではないけれど、家族のもとに帰れない兵隊さんという意味では祖父と同じ境遇なわけで、なので祖父のお墓参りをしている気持ちで墓碑や慰霊碑のまわりを掃除して、『日本から水を持ってきましたよ。お酒じゃなくてごめんなさいね。』と心の中で言いながらそのあたりに撒いた。

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記念館は戦争の残忍さを伝えるものではなくて、タイ人と日本人が良い関係だったということがわかるようなところで、当時の生活の資料館といった感じ。
もちろん戦争が理由の負傷や病気が原因で命を落とす人々も少なくなく、お寺は野戦病院にもなっていたのだけど、一方で健康な人は現地の生活にとけ込んでいたということがわかり、私にとっては新しい発見だった。


チェンマイでも日本の戦没者慰霊祭を毎年8月15日におこなっていることを知ってはいたが、見知らぬ日本人とは距離をおきたい(急激に近づきたくない)私はずっと参加しないでいたのだけど、一昨年はなぜか『今年は行きたい』と思って参加してきた。
オットは仕事があったので朝のうちに私も一緒に市内に出向き、そこからは徒歩で牛の祠が目印のお寺へ。
記帳簿に記名を求められたので、そこには『日本〇〇県、ヨリミチ』と記した。

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結局昨年からはコロナ禍ということで慰霊祭というかたちはとらず、お参りをしたい人は個々に訪れて手をあわせる、ということになっている。なので一昨年は急に思い立って慰霊祭に足を運んだのだけど、今となっては行っておいて良かったと思っている。
祖父のお墓は父の郷里にあって実家からは遠いし親戚とは疎遠になりつつあるし、遺骨があると思われるところは更に遠い。
自分に都合のよい考えだけれど、チェンマイのお寺にお参りすることで、祖父の同士に会えているような気がした。

次にチェンマイに行くときは、また日本から水を持って行って牛の祠のお寺に供えてこようかな。今度は日本酒がいいかな。

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