チェンマイよりみちの記録

タイ・チェンマイに寄り道する人生を選択した個人の記録です。私、ヨリミチ(仮名)が日本やタイからお届けします。

タイ人(男)と日本人(女)の結婚  - 0.5 -

今日のタイトル『0.5』というのは、まだ『1』の段階に達していないから。
書類を揃える前段階の話。


おひとりさまの人生でいくはずだった私が、なぜ結婚したのか。

昨日の投稿で、私は30代のあるときに、結婚、出産、子育てを選択しないことを選んだ、と書いた。これは誰かから決断を迫られたわけではなく、自ら選んだこと。どれを最初に選択肢から外したのかというと『卵が先か、ニワトリが先か』というのと似ていると思うのでどれとは言えないけれど、こどもを産まないのなら結婚しなくていいかな、という路線があったのは確か。でもそれは、自分の人生が日本で継続し、終了するという無意識のうちの前提条件があったからだと思う。

そういう流れでいうと、たぶん相手が日本人だったら結婚しなかった。
かと言って、外国人と結婚したかったわけでもない。
だけど日本以外の国を拠点にしている人だったから結婚することにした、というのはある。
そして、私の願望としてはこどもをもうけることを望まない生活で、オットが相手なら基本的には自分と相手だけの家族構成で完結する可能性が高い、というのも決断のきっかけにはなった。
オットには娘がひとりいることはわかっていたので、それも私にとっては好都合だった。たとえば相手の男性が私にこどもを産んでほしいと熱望する人だったら結婚はしなかったと思う。

交際相手と結婚しないでそのままの関係を続けるという選択ももちろん有りではあるけれど、何しろお互いが暮らしている国が違う。しかも陸続きではない。
陸続きならロミオとジュリエットのように空間を隔ててあっち側とこっち側で会話をすることも可能な場合もあるけれど、日本とタイではそういうわけにはいかない。そしてもしも国どうしが対立するようなことがあったら直接会うことはできなくなるかもしれないし、最悪の場合は通信さえできなくなるかもしれない。

そういう悪い方向への想像も決断のきっかけにはなった。

だけどいちばん大きかったのは『この人と一緒に過ごす人生になれば、自分の世界が広がるかもしれない。自分の人生をもっと楽しい!と思えるかもしれない』という妄想だった。

それまでの人生だって私は私なりに楽しんできたつもりだったし、やってきたことについて後悔はないけれど、もしかしたら自分の中の引き出しが増えるのではないか、経験値が上がるのではないか、というような、漠然としたものへの期待や欲が上がっていくのを感じていた。
そのときの私の年齢の日本人女性なら、きっと子供がいる人のほうが多い。なのでそれによる制限は多かれ少なかれあると思うのだけど、私にはそれはない。そういう意味では守るものもないし失うものもない。
なので、私にとってオットとの結婚は賭けとか挑戦に近いものだと思っている。挑戦だと思えば、どんどん前に進もうという気にもなってくる。


この結婚で、ひとつオットに申し訳ないな、と思っていることがある。
オットはカトリックのクリスチャンで、宗教の方針としては再婚はできない。
私は無宗教者だし、宗教の規則について勉強したことはないので詳しいことはわからないのだけど、私と結婚することによって何らかの影響があったはず。
私は宗教的なことに興味がないのでオットに深く尋ねたことはないのだけど、オットはただの信者ではなくて過去にきちんとキリスト教の勉強をして洗礼を受け、そちらでの名前もいただいていたのではないかと思う。
私と結婚する前はミサに行くと最後の儀式まで参加していたのだけど、結婚してからはその儀式の手前で引き上げている。
タイ人は信仰を非常に大切にしているので、そこのルールに背くことを選ばせてしまったことについては私も常に心に留めておかないといけないな、と思っている。


が、事実婚の多いタイのことなので、敬虔なクリスチャンであっても全員がローマ教皇が理想とする婚姻状態であるかどうかはわからない(笑)。
オットの前妻のご両親もカトリックなのだけど、イマイチ理解に苦しむところがある。それは私が日本人だから感じることなのか、カトリックの規則をわかっていないから感じることなのか、それとも他の理由があるのかわからない。

オットがカトリック信者になったのは前回の結婚と関係があり、前妻がカトリックだったので交際中に改宗したとのこと。
オットの実家は仏教徒なので、オットも学生時代はほとんどのタイ人と同じように当たり前に仏教の教えを学んだ。しかしキリスト教の勉強をしてみたら、自分にはこちらの思想のほうが合っているような気がして抵抗なく改宗したらしい。

なので仕事以外の時間ではオットは寺院の本堂には入らないし、記念日のようなときの食事では呪文のようなお祈りをしなくてはならないし、きっと他にも制約があるだろうからちょっと窮屈だな、と思う。それにタイでキリスト教が広まっていく中で、本来のものから変化してタイ流になっている作法などもあると思うので、総本山から見たら不自然なこともあるかもしれない。
私としてはタイで暮らすなら仏教徒のほうが暮らしやすいのではないかと思うのだけど、オットが自分で選んだのだからそれについては意見をすることはない。
それに私がカトリックの信者になる予定もない。

しかし何だかんだ言ってもオットの前回の結婚や離婚がなければ私と出会うこともなかったかもしれないし、今のところ結果オーライ。

これはいつぞやのイースターのお土産

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  • ユル~く続く -
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