オットは無事に参加費を払い、心置きなく同窓会を楽しんだようだった。
この同窓会は小中学校時代の級友と開催したもの。参加者は女性のほうがやや多かったとのことで、全参加者が23人なので、たとえば男性10人と女性13人・・・ではなくて、男性9人、女性12人、その中間が2人、のようなことだった。
『その中間』の人々は手術済みの人が1人、未手術の人が1人だとオットは教えてくれた。・・・そこまで細かく教えてくれなくてもいいんだけど・・・。
日本人の多くがそういう印象を持っているかもしれないが、タイはかなりの数の『その中間の人』が存在していて、その中でもいろいろな区分け(というのか?ジェンダー?適切な単語が思い浮かばないが)がある。
上記の2人は両人とも男性の容姿で生を受け、あるときから女性として生活している。
オットの仕事仲間にも『知り合ったときは男だったのに何年か振りに会ったら女性になってた~』という人がいる。
オットの従姉の子のひとりは女性の容姿で暮らしていて、トイレも女性用を使うけれど服装は男性用。そして恋愛対象は女性。
タイの航空会社の客室乗務員にもそれなりの割合で『その中間の人』がいるし、銀行員やレストランの店員にもいる。
経済社会としては性別不問(で仕事をきちんとしてくれれば良い)だとか、人々の目もそれを許容し温かく受け入れているようにも感じられるのだけど、家族や親族の立場となると案外そうではないらしい。
幸いなことにオットの従姉の子のところは親子関係は良好で、一緒に旅行に行ったり従姉はいろいろなことに寛容だし、娘も母親のことを大事にしているのだけど、オットが言うには『ちょっとやめてよ』と思っている親も少なくないらしい。オットの前妻は『その中間の人』を見るとあからさまに嫌な顔をするし。
でもなぜタイにはそういう中間の人が多く存在するのか、理由はわからないし解明されてもいない。仏教国だから、と言う人がいるけれど、納得できる説明を聞いたことがない。日本には温泉や銭湯のような公衆浴場が日常生活の中にあるから『男である』『女である』ということを重視する必要があるのだろうけど、もしも公衆浴場がない世界だったら男か女かというのは結構どうでもいいことなのかもしれない。
日本にも『表明はしていないけど、その中間』という人は一定数いるのではないかと想像ができるけど、私としては男女という概念的なことは、その個人が快適に過ごせるならどちらでもいいんじゃないかと思っている。